神社とお寺の違い?
神社におりますと、よくお尋ねを頂くのが「神社とお寺とは、どう違うのでしょうか?」
というご質問です。昨今はこういった素朴な事について、中々学校で教えづらくなっているようですから、気になっている方も多いとお見受けします。
神社とお寺の違いは、神社は神様がおられる場所で、お寺は仏様がおられる場所であり、また、神社は神道、お寺は仏教の施設であることに尽きるかと思われますが、もう一つ分かりやすい違いがあります。
それは、神社には「鳥居(とりい)」があって、お寺にはないという点です。
日本の歴史は長いですから、様々な理由でお寺であっても鳥居があったり、神社であっても鳥居がないこともございますが、基本的には神社の入り口には鳥居があります。
今回は、皆様にも馴染み深い鳥居について、詳しく見ていこうと思います。
神明(しんめい)鳥居と明神(みょうじん)鳥居

基本的には、鳥居の両側に二つ建っている二本の柱(はしら)に支えられている上の長い部分を島木(しまぎ)といい、島木の下に引き渡されている短い部分を貫(ぬき)といいます。
また柱の下、地面に接する部分には亀腹(かめばら)や台石(だいいし)が設けられていたり、島木が反っておりその上に笠木(かさぎ)という黒い横木が付けられていたり、貫と柱の付け根の辺りに楔(くさび)があったり、島木と貫の真ん中に額束(がくづか)が設けられていたりと、鳥居によって多くのパーツがございます。
と、これらが鳥居の基本構成ですが、ご存じの通り鳥居にはたくさんの種類があります。全国 8 万社の神社それぞれに鳥居があるわけですから、まさしく無数に種類があるのです。では、その中で当社の鳥居はどのような特徴をなしているのでしょうか。
当社の鳥居をご覧いただければわかります通り、柱は丸く円柱ですが、島木と貫は角ばっております。
また、ほかの神社では貫の両脇が柱を貫通して飛び出ている場合もありますが、当社の鳥居は出ておりません。そして、貫の内側には装飾として楔が一対付いております。
全体的に見ると、大変シンプルな鳥居です。これは内宮の宇治橋の入り口にございます伊勢の神宮の第一鳥居にならった形であるといえましょう。
当社のように丸く直線的な鳥居を神明系鳥居(しんめいけいとりい)と申し上げ、伊勢の神宮の神様をおまつりしている全国の神明神社、宮崎県の宮崎神宮や京都府の野宮神社などに建っております。切ってきた木をそのまま立てたような簡単な形式のものも多く、何事においても素朴でおおらかであった古の時代の考え方が伺えます。
これに対して、島木が反り、笠木、亀腹、額束等が加えられているのが明神系鳥居(みょうじんけいとりい)です。京都の伏見稲荷大社や貴船神社の鳥居、東京の明治神宮の鳥居などが代表的でしょう。仏教の建築様式の影響を受けつつも非常に美しく最も広まった形式で、皆様も馴染み深いのではないでしょうか。
このように、鳥居には大きく分けて神明系と明神系とに分かれますが、このほかにも稲荷鳥居、三輪鳥居、両部鳥居など多くの形式に分かれており、神明系であっても明神系に近い形の鳥居も多くございます。しかし他県の明神系の鳥居などと比べてみますと、神明系鳥居である当社の鳥居の特徴も明らかであろうと思います。
江戸期の神道事典『神道名目類聚抄(しんとうみょうもくるいじゅうしょう)』には、既に多くの鳥居の種類が示されています。今とは違う分類ですが、当時を伺える貴重な記述です。

「鳥居」の意味
さてこの「鳥居」ですが、意外なことにそこまで古い記録があるわけではありません。
伊勢の神宮は二十年に一度、式年遷宮といって神殿をすべて建て替える、とても壮大なお祭りをなさるわけですが、この式年遷宮に象徴されるように、神道では必ずしも古い建物にこだわりません。神様のお住まいは、様式は神代ながらの古いままで、建物自体は新しく清潔に、というような発想です。その為、鳥居もあまり古いものは残っていないのです。
延暦23年(804年)、『皇大神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』が編まれます。これは伊勢の神宮のお祭りのことなどを詳細に記した、神社の儀註としては最古の部類にあたる極めて貴重な文献ですが、この『儀式帳』では「御門(ごもん)」、「不葺御門(うえふかざるごもん)」といった言葉が散見されます。「不葺御門」とは、簡単に申し上げれば屋根のついていない門のことです。
後世の学者は、これら「御門」について位置からしても鳥居のことを指すのだろうと推測しましたが、いずれにせよここまで古い本の中で「鳥居」と呼ばれていないことは気になる点です。またその百年ほど後に編まれた『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という辞書では「鶏栖(とりい)」と書かれていますが、中世の辞典である『節用集(せつようしゅう)』などが登場する頃には、既に「鳥居」表記が広まっていたようです。そして江戸時代の辞書『和訓栞(わくんのしおり)』においては「神社に必ず鳥居ある」と記されています。
中世の頃には神仏習合の風儀から寺院にも鳥居が多数建てられていたことが『平家物語』などの文学作品からも伺え、また神社ではない城や街道の入り口に設けることもあったようですが、それにつけても鳥居は日本人にとってなじみの深いものです。現在国土地理院(国土交通省)が定めている神社の地図記号は鳥居の形をしていますが、このように地図上で神社が鳥居のマークであらわされることは江戸時代から既に例があるとのことですから、鳥居は神社のシンボルといってよいでしょう。
しかし、鳥居がどんな意味を持っており、いつからあるのかという点については、意外とわかっていないのです。かつては中国の「華表(かひょう)」という柱と同一視されたり、仏教の側から「阿字門(あじもん)」「発心門(ほっしんもん)」として解釈されたり、多くの神道学者が色々な説を出したりしましたが、それでも決着はついておりません。
前記の『神道名目類聚抄』でも多くの説を挙げており、また現在の神社本庁の㏋でも鳥居の起源については、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋にお隠れになった際に、八百万(やおよろず)の神々が鶏を鳴かせましたが、このとき鶏が止まった木を鳥居の起源であるとする説や、外国からの渡来説などがあります。
と、両論併記の形をとっています。
いくら日本人にとって馴染み深くとも、全てわかっているとは限らないのです。
むしろ、馴染み深いからこそ、深く知らずともその大切さがわかるのかもしれません。鳥居は神社の入り口であり、またその奥に神様がおわすことを示す目印なのです。
鳥居の作法-鳥居の前でのお辞儀について
鳥居は神社の入り口であり、またその奥に神様がおわすことを示す目印であることを申し上げました。
当社の鳥居の前には「下乗」という札がございます。伊勢の神宮にもある札でございますが、この先は神域であり、馬や車から降りるべきことを表しております。平安時代の故実書『江家次第(ごうけしだい)』には、内宮外宮共に、第一鳥居の前で剣や弓などを外してから内にはいることを記しており、鳥居が神様の目印であると同時に、神前に進むに際して襟を正す目印でもあることは、故実に明らかなことであります。
これに関係して昨今、「鳥居の前でお辞儀をする」という作法が、一般の参拝作法として取り沙汰されております。
実は、この「鳥居の前でお辞儀をする」という作法は、神職の祭式作法として明確に定められているわけではありません。
一般の「お辞儀」に似た作法に「揖」という作法がございますが、現代の神職の作法は神社本庁の『神社祭式行事作法』にて定められています。この「揖」の箇所を見てみますと揖は座の起著、列の離著、階の昇降、殿舎神門の出入、物品の授受、神前の進退、行事の前後、沓の著脱のとき等に之を行ふ。(後略)
とあります。
お辞儀と違って、揖はなすべき所が明確に定められているのです。この「揖をなすべき所」に鳥居の出入はありますでしょうか。なんとありません。
あくまで「等」である点、鳥居の前での揖を認めていないわけではないことが分かります。それでも「鳥居の前での揖」が明記されていないのは
- 祭典時、神職は既に境内にて斎戒を終え著装した状態である為、必ずしも鳥居をくぐって境内に入る為の揖をする必要がない。
- 多くの神社にはきわめて多数の鳥居が設けられており、特に稲荷神社などでは、鳥居の前で必ず揖をするように定めてしまうと祭典があまりに煩雑になってしまう。
等の事情があるように思われますが、それでも平時には鳥居の前で揖をする神職さんも多くおられます。
以上が現在の形ですが、昔は鳥居に出入りする際に、何か作法はあったのでしょうか。
現在、殆どの神社は神社本庁に加入していますが、明治から昭和までは国家管理であり、その前は基本的には幕府が統括しつつも、神職たちは吉田家という所から作法を伝授してもらったり、装束についての許可をもらったりしておりました。
この吉田家が神職に伝授していた秘伝の作法をまとめた本に『神道諸行事大成(しんとうしょぎょうじたいせい)』がございますが、この中には「鳥居大事」として、正中に立って印を組み、膝を折って神坐鳥居(かみのますとりい)を 入(いれば) 於此身(このみ)より 日月宮殿(ひつきのみや)と 安楽而住(やすらかにすむ)と唱え、それから神前へと進む作法がございました。
戦前、『鳥居の研究』という素晴らしい専門書を書いた根岸榮隆(ねぎしひでたか)という方はこの作法を紹介し唯一神道(吉田家)については兎角の議論もあるが、鳥居に対する見解の高邁さは学ぶべきであって、襟を正して聴かざるを得ない。(一部改、()内筆者)と高く評価しておられます。
他にも、伊勢の神宮の神職が書いた参拝の作法や祝詞をまとめた本である『神拝式類集(しんぱいしきるいしゅう)』には、多くの参拝作法が載っておりますが、中でも編者の輿村弘正(こしむらひろまさ)の手によるもので、端的にまとまっているものに「内宮神拝之記(ないくうしんぱいのき)」がございます。
ここでは、鳥居に入るときにはそれぞれ拝を行う事、そして一の鳥居に入るときに「豊葦原の国に入」、二の鳥居に入るときに「瑞穂の国に入」、三の鳥居に入るときには「大和の国に入」と観念することが記されております。また、その他にも鳥居の出入りに際して口伝があるようです。
この鳥居の前での拝については、神宮の神様への拝というよりも鳥居自体に宿っている神様への拝と解釈する余地がございますので、今の「鳥居の前でお辞儀をする」という作法とは少し違った考え方ですが、それでも鳥居をくぐって段々と神前に近づくことが非常に重大なことであって、また相応の作法が必要であったことが伺えます。
鳥居をくぐるということは、本来ここまで神聖な行いであるのです。
しかし神職ならまだしも、一般の皆様が参拝の度にここまで難解な作法をして頂くことは大変です。
であれば、鳥居に入るとき、また出るときにお辞儀をするという作法は、神様を尊重しつつ、非常にしやすい作法ではないでしょうか。
例えば、境内が混雑していて立ち止まれないときにはお辞儀を省略したり、お稲荷さんのように鳥居があまりにも多い場合には、最初の鳥居と最後の鳥居を出入りするときのみお辞儀をしたりと、少し工夫が必要なお作法ではございますが、それでも鳥居の前で神様へとお辞儀をすることは、大変良いお心がけであろうと思います。
上古質素の時の門
以上、鳥居についてやや詳しく見ていきましたが、鳥居に似た門は諸外国にも多く事例がございます。
戦前に書かれた『鳥居の研究』の時点で諸外国の例が多く取り上げられておりますから、その起源について説が分かれるのも無理のないことでしょう。
しかし『鳥居の研究』では、簡単なつくりであるからこそ、諸外国でも似たものが多く考案されたのだろうという点についても触れています。『神道名目類聚抄』にも「上古質素の時の門なり」とありますが、鳥居の魅力としても意味としても、これにつきるのではないかと思われます。神明系鳥居の所でも少し申し上げました通り、鳥居の良さとは、このように何事においても素朴であった古の時代を思わせる簡素なつくりでありながら、後付けの装飾や近代的な発想も否定しない大らかさのある、まさに神道的な部分にありましょう。
神社によっては、崇敬者さまよりご奉納を頂いて建てることも多い鳥居ですが、それが神社のシンボルであることに、きっと神様もお喜びであろうと思います。