神さまは見ておられるか
皆様一度はこのような疑問をお持ちになった事があろうと思います。
つらい事があったとき、努力が報われないとき、普段の何気ない瞬間でも。神さまは本当に見ておられるのか。我々神職であろうと、時たま思うことがございます。
結論から申し上げますと、神さまはすべて見えているわけではないのではないでしょうか。
それは何も実際の上からということだけではなく、わが国最古の史書であり、神代の物語の記された書物でもある『古事記』を見ると、ヒントがあります。
古事記の中で、天照大御神、月夜見命、須佐之男命がお成りになった後のお話です。黄泉の国に去った伊邪那美命(須佐之男命)を慕った須佐之男命は、国を離れる暇乞い、いわば挨拶をするために、姉神である天照大御神のもとへと向かいます。
凄まじい威力をもつ須佐之男命が移動なさったことによって、国土には大地震が巻き起こり、警戒した天照大御神は武装なさった上で弟神を迎え撃ちます。
当惑した須佐之男命のご提案によって、二神は清心を証明するために誓約をなさり、その結果はじめて須佐之男命に邪心がないことがわかったのです。
また、このようなエピソードもございます。
髙木神(高御産巣日神)と天照大御神をはじめとした高天原の神々は、地上を平定した大国主命との交渉役として、天若日子を地上へ遣わしました。
しかし、天若日子は野心を持って大国主命の娘神を娶り、八年の間高天原との連絡を絶ったばかりか、部下の求めに応じ、高天原の使者である雉を射殺してしまいます。最終的にはその矢が高天原まで届き、髙木神が願をかけて投げ返した矢によって天若日子は一種の天罰を受けることになります。
これらのお話からわかる通り、須佐之男命や天若日子に邪心があったかどうか、高木神や天照大御神は直接知ることはできなかったのです。だからこそ誓約をしたり、使者を遣わして、確認する必要がございました。
これらはあくまで神さま同士のお話ではございますが、どうやら神々といえど、何もせずとも全てを見たり知ったりすることは困難であることが拝せられます。
だからこそ、人間の側から祈ることが大切なのではないでしょうか。
神さまが全てを見透かすことのできる絶対的なご存在であるならば、敢えて祈る必要はないのかもしれません。しかし、事実遠い昔より日本人は神々へと祈りを捧げ続けてきました。神さまに自らの心をわかってもらう為に、祈らずにはいられないのです。

私たちは祈っているか
我々神職は、全国に約二万人おります。つまり、私の代わりは二万人いることになります。
と、考えてしまうようでは、神職としては落第でしょう。私を育んでくれたこの国、この家族、この縁、この神さま。そして今までお勤め申し上げた中で触れた、沢山の清き明き真心。それを受けておきながら、自分自身の奉仕に特別なものを見いだせないようではいけません。
それは何も奉仕だけではないでしょう。神道の中で考えるべき重大な問題は、殆ど本居宣長など昔の神道学者が答えを出してくれています。同じく人生の中で抱いた疑問など古今東西の哲学者にかかればあっさりと解決してしまうでしょうし、自分よりも知性も身体も優れた人はこの世の中に山のようにいます。
誰しも、誰にも負けない得意なことや、誰よりも打ち込める好きなことを持ちたいと思うものですが、それは殆ど叶いません。世の中は広く、その意味での代わりは星の数ほどいるのです。
しかし、いかに世の中に優れた人が多くても、結局その人たちはあなたの代わりになることはできません。神さまのことで悩んでいる人が目の前にいても、本居宣長や大学の先生は駆けつけてはくれません。
あなたやあなたの大切な人が人生の事で追い詰められていても、ニーチェやカウンセラーの先生が隣にいることはできません。どれだけ頭が良い人がいても、身体能力が高い人がいても、あなたの前で倒れた人には、あなたしか手を差し伸べることはできません。
この世の中で、あなたにしかできないことは、意外とたくさんあるものです。恐らく、その最たるものが祈りなのでしょう。
宮中では天皇陛下が、日本中の神社では我々神職が、日本人、ひいては世界中の人々の為に日々お祈りをしています。真剣な、心のこもった奉仕です。しかし、一切の濁りのない真心で祈るという事は、神職だろうとそう簡単に務まるものではありません。
大変誤解を生む表現であることは承知しておりますが、究極的には、真剣に奉仕しようという気持ちそのものが濁りであるとも言えます。「こうあるべき」という気持ちすら抱けないほどの真っすぐな祈り。
それは恐らく、人間が狙って行うことのできない程の境地なのではないでしょうか?それは、決して代わりでは務まりません。
皆様一人ひとりの心から発せられた祈りは、この上なく尊いものであろうと思います。そんな祈りをできればこそ、神さまはきっと見届けてくれるだろうと思います。